『わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます[パワーオブナウ宣言]』 (2007 093)

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『わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます[パワーオブナウ宣言]』読了。

「大いなる存在」を受け入れられるかどうかが、最初の障害。
大いなる存在 = divinity in myself だと思う。

<メモ memo (引用)>
P. 24
 くれぐれも、感情におどらされないよう、注意してください。感情は、あるがままにほうっておきましょう。そうすれば、感情そのものになってしまうことはなく、「感情を観察する人」になれるのです。これができるようになるとあなたの内面の無意識なものは、すべて意識の光に照らされ、明るみに出るようになることでしょう。

 「いま、この瞬間」、わたしの心で、なにが起こっているだろうか?
 このように、自問する習慣をつけましょう。この質問が、あなたを、適切な方向へと導いてくれるはずです。ただし、内面で起こっていることを、あれこれ分析しないでください。観察するだけです。感情に、意識を集中させるのです。感情のエネルギーを、感じましょう。もしも、感情が見つからないのなら、からだの内側の、もっと深いところを意識しましょう。そこが「大いなる存在」への入口なのです。

P. 32
 過去には、なにひとつ起こっていません。
 起こったのは、「いま」なのです。

 未来には、なにひとつ起こりません。
 すべては「いま」、起こるのです。

P. 35-36
 どんな場面でも、自分の反応や、思考と感情の動きを観察して、「いま」に在りましょう。少なくとも、自分に反応を起こさせた人や物事に対して払うのと同じくらい、自分の反応に対しても、関心を払うようにしたいものです。
 また、自分がどれほど過去や未来に照準を合わせているかも、観察しましょう。ただし、観察する対象に評価を下すことや、分析することは、必要ありません。自分自身のかしつとみなすことも、やめましょう。思考を見張り、感情を感じ、反応を観察するだけで、十分です。すると、自分の内側にあるパワフルな「なにか」を、感じはじめるはずです。思考の奥にある、じっとしていて動かない存在です。

 強い感情エネルギーで反応してしまった時には、普段にもまして、「いま」に在なければなりません。自分のイメージがおびやかされる、恐れを抱くような試練に直面する、計画が狂いだす、コンプレックスがわき上がってくる、などの状況で、わたしたちは、しばしば、感情のおもむくままに行動します。自分を正当化し、誰かを悪者にして攻撃するのです。この一連のことをおこなっているのは、「ほんとうの自分」ではありません。思考が、習性として、おこなっているのです。

 思考を「ほんとうの自分」とみなすと、思考のエネルギーは、さらにパワーアップされます。逆に、思考を観察すれば、思考のエネルギーは弱まります。
 思考とひとつになることは、「時間の世界」に住むことを意味します。逆に、思考を観察すれば、時間のない次元が開けてくるのです。「いまに在る」ことが、どういうことなのか、経験的につかめれば、時間を必要とする時以外には、「時間の世界」から自由に抜け出すことができるようになります。しかも、時間を使わなければならない時に、その能力を損なうこともありません。むしろ、その能力が高められるのです。いざ思考を使う時には、いっそう、とぎすまされたものになり、集中して使えるようになります。

P. 53
 それでは、苦しみを取りのぞくためには、どうすればよいのでしょうか?
 苦しみも、まず、それをきちんと観察することからはじめます。そして、なにが自分に不安や不満を芽生えさせているかを、見極めてください。「すでにそうであるもの」に対する決めつけや、抵抗、「いま」の拒絶など、無意識なものはすべて、意識の光で照らすことによって、溶けて消えてしまいます。

P. 56
すべての瞬間に、過去を捨て去りましょう。わたしたちには、過去など必要ありません。現在に解決しなければならないことがあって、どうしても過去を参考にしなければならない時にだけ、そうしてください。「いまのパワー」と「大いなる存在」の豊かさを、全身で吸い込みましょう。そうすれば、「わたしは、いま、ここに存在する!」と実感するはずです。

P. 60
 心理的に「待つ」のは、もうやめましょう。未来を待ちわびていると気づいたら、すぐさまそこから抜け出し、「いま、この瞬間」に、すぐはいりこんでください。完全に「いま」に在り、しかも「在ること」を楽しむのです。「いまに在る」なら、どんな時でも、なにも待っていません。ですから、誰かに「お待たせしてごめんなさい」と言われたら、こんな返答ができるのです。「全然構いませんよ! わたしは待っていませんでしたから。喜びに満たされて、ただここに立っているのを楽しんでいただけなんですよ」

P. 68
 「大いなる存在」は、見たり触ったりできるからだによって、認識するものではありません。目に見えるからだは「衣」、「虚像」であり、その奥にあるものが実体なのです。「大いなる存在」とつながっていれば、この実態は躍動する「内なる生命」もしくは「インナーボディ」として感じられます。つまり、「からだに住まう」ことは、からだのうちにある生命を感じることであり、そうすることによって、「わたしは見かけの姿を超越した存在なのだ」、という認識に到達できるのです。

P. 86
 からだに積もった痛みは、ネガティブなエネルギーのかたちで、心とからだにくっついています。これが感情の痛み、わたしが「ペインボディ」と呼ぶものです。ペインボディには、ふたつの状態があります。眠っているものと、活動しているものです。休火山と活火山をイメージすると、わかりやすいかもしれません。

P. 88-89
 気心を知りつくしたつもりでいた人が、突然、それまでに見せたことのない、悪意に満ちた性格を露呈するのを目の当たりにして、大きなショックを受けたことがありませんか?
 あなたは、ペインボディが牙をむく瞬間を、目撃したのです。しかしながら、誰かのペインボディを観察するよりも、自分自身のペインボディを観察することのほうがずっと大切なのは、言うまでもありません。

 ほんのわずかでも、みじめな気持ちがわき上がってきたら、注意しましょう。それがペインボディの目覚めのサインかもしれないからです。「いらだち」「怒り」「落ちこみ」「鬱状態」「誰かを傷つけたいという欲求」「人間関係で『ドラマ』をつくらずにいられないこと」などが、そのパターンです。ペインボディが目覚めるその瞬間に、しっかりとつかまえましょう。
 ペインボディが存続できる道は、ただひとつ、わたしたちが、無意識のうちにペインボディとひとつになってしまうことです。ペインボディも、人間と同じように、生きるための「栄養」を必要としています。栄養は、ペインボディのエネルギーと共鳴するものならば、どんな経験でもかまいません。さらなる痛みをこしらえるものであれば、なんでも栄養にしてしまいます。ペインボディは、栄養を摂取するために、同じ種類のエネルギーを帯びた状況を、その人の人生につくりだします。痛みの栄養は、痛み以外にはありません。痛みは、喜びを食べて生きられないからです。痛みは、喜びを消化することができないのです。

P. 96
 つまり、ペインボディをアイデンティティにするということは、過去をアイデンティティにするということを意味します。「わたしは被害者です」というアイデンティティは、「『いま』よりも、過去のほうがパワーを持っている」という信念に基づいています。つまり、他者や、他者のしたことが、現在の自分の感情的痛みの原因であり、「ほんとうの自分」でいられないことに責任を負っていると信じていることになります。
 しかし、これは事実ではありません。「唯一のパワーは、『いま、この瞬間』意外には存在しない」こと、これこそが事実なのです。唯一のパワーは、「いまに在る」ことで生まれるパワーです。いったnこの事実がのみこめたら、「現在の自分の心のあり方に責任があるのは、自分自身であり、ほかの誰でもない」ということが、わかるはずです。そして、過去は「いまのパワー」に歯が立たないということも、わかるでしょう。

P. 111-112
 カップルが両方とも、相手との交流を、精神成長のレッスンだと認識していれば、もちろんそれに越したことはありません。もしそうなら、互いに自分の考えや感ずるところを「決めつけ」をしないで、相手に表現できるでしょう。感情や不満を表現し損ねたために、ネガティブなものが心の中でわだかまったり、ふくれあがったりすることもありません。
 相手を非難せずに、自分の思いを率直に述べる術を身につけるのは、とても大切なことです。自分を正当化せずに、広い心でパートナーの話に耳を傾けることも、同じくらい大切です。こうすれば、相手にも、表現するスペースを与えられるからです。そのためには、まず「いま」に在りましょう。すると、非難、自己弁護、攻撃などの方法で「にせの自分」を防衛しようとする、エゴの出番はなくなります。自分自身はもちろん、相手にもスペースを与えることは、人間関係において不可欠です。スペースがなくては、愛は育たないのですから。

P. 115
 わたしたちは、「自分自身」との関係を築く必要はありません。シンプルに、「自分自身のまま」でいればいいのです。自分自身と関係を結ぶと、自分を「わたしとわたし自身」または「主体と客体」というふたつに分裂させてしまいます。思考がつくるこの二元性が、無駄な混乱、問題、衝突を生む、温床なのです。

 さとりをひらいた人にとって、「自分」と「自分自身」はイコールであり、そのふたつはひとつに溶け合っています。自分は、自分自身に対して、決めつけをしません。自分自身を、愛したりしません。自分自身を、憎んだりしません。保護し、防衛し、養わなければならない「自分自身」は存在しません。
 あなたがさとりをひらいているならば、「わたしとわたし自身」という、余計な関係を築く必要はなくなります。それを手放すと、すべての関係は、ある「ひとつの関係」に変わります。それは、「愛の関係」です。

P. 120-121
 人生に抵抗せずに生きると、優美で、朗らかで、平和な心境でいられます。この心境は、状況の良し悪しに翻弄されません。逆説のように思えるかも知れませんが、かたちあるものに執着しなくなったとたんに、「かたちある世界」の状況が、好転することが多々あります。幸福になるために必要だと思いこんでいたもの、人、状況にしがみつかなくなったとたん、奮闘や努力なしに、それらがスムースにやってくるのです。それがやってくる分には、存分に楽しみ、享受すればいいのです。もちろん、状況にはすべてサイクルがありますから、それもやがては去っていくでしょう。しかし、執着のない境地にいるかぎり、失うことへの恐れもありません。人生は安らぎとともに、ゆるやかに流れていきます。

P. 126-127
 今度は、誰かが、あなたを傷つける意図で、なにか気にさわることを言ったとしましょう。そんな時にも、攻撃、防衛、カラに閉じこもるなどの、無意識な反応をしてネガティブ性をつくるかわりに、その言葉が、自分をとおり抜けていくところをイメージするのです。抵抗は、すべて手放しましょう。それは、言わば、「もう誰も、わたしを傷つけることはできない」という心境です。これこそが、ほんとうの「許し」です。この許しをしていれば、あなたはもろくありません。はがねのごとく、強靱でいられるのです。

 この境地に達していても、誰かに、「あなたの行動、許容できませんよ」と伝える選択をすることもあるでしょう。しかし、許しをしているかぎり、誰かの言動に、自分の心の状態がコントロールされることはありません。自分自身が、コントロールの座に就いているからです。これは、ほかの誰かに対してではなく、自分自身に対してという意味です。また、思考がパワーをにぎっているわけでもありません。原因が、車のアラームでも、無礼な人でも、洪水でも、地震でも、全財産を失うことでも、ネガティブな感情を手放す方法は、みな同じです。

P. 145
 「手放すこと」をすれば、人間関係は、深いレベルで変わってきます。「すでにそうであるもの」を受けいれられない人は、人をも、ありのままに受け入れてはいません。つまり、人に対して判断を下し、批判し、レッテルを貼り、拒絶するか、自分の思いどおりに相手を変えようとしてしまうのです。
 また、「いま」を「目的達成のための踏み台」とみなしている人は、自分が出会う人たちをも、目的達成のための踏み台にしています。当然の結果として、人間関係、つきつめると人間そのものが、その人にとってあまり重要でなくなります。極端な場合には、まったく意味のないものになってしまうでしょう。物的な利益でも、権力でも、身体的な快楽やエゴの欲求を満たすことなど、人からなにを獲得できるかということが、その人にとって最大の関心事になります。

P. 164
「ほんとうの自分」のアイデンティティを、過去から引き出しているうちは、他人はもちろんのこと、自分自身でさえも、ほんとうの意味で許してはいません。唯一のパワーの源泉である「いま」につながって、はじめて真の許しが可能になります。「いま」につながれば、過去は無力になり、「自分がこれまでしたこと、されたことは、ほんとうの自分という輝かしい本質を傷つけるどころか、それをかすりもしなかったのだ」と、心の奥で気づきます。すると、「許し」という概念そのものが、不要になります。

「すでにそうであるもの」を受け入れ、完全に「いま」に在れば、過去はパワーを失ってしまいます。過去など必要なくなるのです。いまに在ること、これこそが、なによりも肝心です。


内容(「BOOK」データベースより)
過去と未来に執着しすぎるあなたへ―いつも幸せでいるひとの合言葉はパワーオブナウ(いまこの瞬間を大切に生きる)です!こう生きれば、絶対消えます!悩み・不安・苦しみ・トラブル。「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」の実践コンパクト版。

わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます[パワーオブナウ宣言][予定価格]わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます[パワーオブナウ宣言][予定価格]
エックハルト・トール 飯田 史彦


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このページは、natsukoがSeptember 13, 2007 1:43 AMに書いたブログ記事です。

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